『笑う子規』 正岡子規・著 /天野祐吉・編/南 伸坊・絵

俳句はおかしみの文芸です。
だいたい、俳句の「俳」は、「おどけ」とか「たわむれ」という意味ですね。あちらの言葉でいう「ユーモア」に近いものだと思います。
              柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺

子規さんのこの句を成り立たせているのも、おかしみの感情です。「柿を食べる」ことと「鐘が鳴る」ことの間には、なんの必然的な関係もないし、気分の上の関連もない。つまり、二つのことの間には、はっきりした裂け目が、ズレがあります。

もともとおかしみというのは、裂け目やズレの間からシューッと噴き出てくるものだとぼくは思っているのですが、この場合にも、そんなズレからくるおかしみが、ぼくらの気持ちをなごませてくれていると思うのです。

以上が、ずいぶん長い引用になりましたが、「おどけ」・「たわむれ」の再生、〝俳句ルネサンス”ともいうべき『笑う子規』の紹介にふさわしい <はじめに> の書き出し部分です。

この本には、子規の俳句の中でも、とくにおかしみの強い句、笑える句を選ばれており、それぞれの句には天野さんの思わずくすりとさせられる短文がつけられ、南さんの季節がにおう絵が挿しはさまれております。

「おどけ」・「たわむれ」の見本ともいうべき『笑う子規』から、いくつか実例をしめします。が、残念ながら南さんの挿絵はここでは示せないので、どうか本で見ていただきたい。


ー極楽は赤い蓮(はちす)に女かなー極楽とはどんあところか。そう聞かれると、こう答えるようにして                いる。嘘だとバレても、死者に口なしだ。


ー桃太郎は桃 金太郎は何からぞー金太郎は飴から生まれたに決まっとるじゃろ。


ー稲妻や大福餅をくう女ー真っ暗な中でピカッと稲妻が光ったとき、その一瞬の青白い光の中に大福餅            を食ってる女の顔が浮かび上がったら、こわいだろう、こわいよな。


ー猫老いて鼠もとらず置き炬燵ー役立たずの見本。こたつの置物。隠居の標本。それでも飯だけは三度               しっかり食べるところが、うちのじいさんにそっくり。


ー夕顔に女湯あみすあからさまーこれ見よがしにやってるわけじゃない。おとこのほうが勝手にそう感じるだけだ。ま、そうでない場合もあるけどな。


ー涼しさや人さまざまの不恰好ー母親は襦袢一枚、父親はふんどし一丁。裸でくしゃくしゃになってい               るのは、ありゃ婆さんだ。


ー睾丸の大きな人の昼寝かなーなぜか度胸のすわった男はアレが大きいと思われている。が、もちろん              アレの大小と人間の大小はまったく関係がない。それにしても、褌から              ハミだしているあの人のアレは大きいなあ。