江戸期の花弁園芸文化ー中尾佐助(花と木の文化史)ー

 江戸期に大改良された品種で、西欧に大きな刺激をあたえたのは、ツツジ、サツキ、アサガオハナショウブカキツバタ、アヤメ、……、カエデ、などである。それ以前からの、サクラ、ツバキはいうまでもなかろう。「栽培植物の世界」でも述べたが、日本文化史研究者はそのことを見逃している。

江戸時代の花弁、庭木の大発達ー中尾佐助(栽培植物の世界)ー

 日本が今日の世界文明に貢献した要素として、江戸時代の花弁、庭木の園芸成果は非常に大きい。浮世絵が西洋文化に与えた刺激より、園芸植物の与えた影響のほうがはるかに大きい…。そのことを日本文化史の研究者はまったく認識していない。

本を書くことは恥をかくことだー中尾佐助ー

私は、本を書くことは恥をかくことだと思っている。まちがいがどうしてもまぎれ込むし、認識不足や足らないところが出てくるものだ。こういう意味で他の書を見ると、欠陥はずいぶんあるのが常だ。しかし欠陥をおそれ、完全無欠を追求すれば、それはもう、ものをいうことをやめるほかあるまい。どうせ学問と知識の世界は、はじめからなんらかの意味で誤りのあるものを積みあげ、修正につぐ修正を重ねて、だんだん良いものに仕上げてきた歴史の上に成り立っているのだ。私は、学者は自分の前説を自分でどんどん更新していくのが使命だと思っている。それができない人は停止してしまった人というべきだろう。
                −中尾佐助「栽培植物の世界」の¨あとがき¨ー

感動のコンテンツに毒された社会

感動コンテンツに毒された社会

不道徳お母さん講座 私たちはなぜ母性と自己犠牲に感動するのか著者:堀越 英美出版社:河出書房新社ジャンル:哲学・思想・宗教・心理

「ごんぎつね」に感動させてどうする気? 母さんライターが歴史をさかのぼり、日本人の「道徳観」がいかにつくられたかを明かし、「道徳」のタブーに踏み込み、解体する。『cake…
評者:寺尾紗穂 / 朝⽇新聞掲載:2018年10月13日

不道徳お母さん講座 私たちはなぜ母性と自己犠牲に感動するのか [著]堀越英美
 
去年、小学生の娘の授業参観の「道徳」の授業を見たとき、先生の投げかけは必ずしも悪くはなかったが、教科書が誘導せんとする方向性にため息がでた覚えがある。本書は、そうした道徳教育のいかがわしさが、戦前「日本少国民文化協会」を引っ張っていたような人物に遡れること、彼らは戦後も教育界に残って道徳や国語教育に影響を及ぼしたことを明らかにしている。少国民文化協会の重鎮は、初期PTAの性格付けにも影響力をもっていた。PTA自体は戦後GHQが置かせた民主的組織のはずだが、中身はずいぶん日本風にできあがっている。今も多くのPTAで「みなさん入会されます」と非入会の権利が説明されないことが常態となっていたり、「今日決まらなければ明日も来てもらいます」と脅されつつ次期役員が決まっていく現状を思うと、さもありなんと納得である。
 二児を持つ著者による本書は、フランクな筆致で道徳教育や母性愛の歴史を丹念に遡ってゆく。論文や資料を読み込んで書かれた重厚な中身を、ツッコミを入れつつ読ませる力量はたいしたものだと思う。
 道徳以外のトピックも興味深い。危険性が指摘されながらも存続する組体操の起源が、戦地で崖などの高所へ上るとき有用な人間梯子のための兵式体操に遡れること。卒業式ではおなじみの、一人一言決められた「思い出」を語っていく「群読」スタイルの起源が、大政翼賛会文化部長だった岸田國士らが、愛国詩の朗読運動をすすめる中で生まれていたこと。これまた賛否両論ある「二分の一成人式」を推進するのは保守系教員団体であり、式の準備として教師による児童の作文書き換えを推奨していることなど、目を離せない話題が続く。問題含みのトピックに共通するのは、「感動」だ。日本社会がどれほど感動コンテンツに毒され、小さな声を聞き逃しているか、改めて考えさせられる本でもある。
    ◇
 ほりこし・ひでみ 1973年生まれ。ライター。著書に『萌える日本文学』『女の子は本当にピンクが好きなのか』。

単純から複雑への疑問

加藤尚武『教育ヒューマニズム批判』
       (雑誌・現代思想1985年11月号・特集=教育のパラドックス)

「リニアーなプログラム」主義への疑問

甘口な教育ヒューマニズムが問題にする「落ちこぼれ」は、彼等が信じて疑わない「リニアーなプログラム」の生み出すものである。普通スペンサーの名のもとに語られる「単純から複雑へ、漠然から明確へ、具体から抽象へ、経験から合理性へ」というプログラムの構成原理について、教育ヒューマニズムはなんら疑いを持たない。この構成原理は、いかにも「児童の発達段階を重視するゆえに、児童の自発性を尊重する」かに見えながら、実は、教える者の教えられる者への絶対的な優位を意味している。そればかりか「単純と複雑」という近世哲学に固有のドグマに依存している。それは知識のアトミズムである。教える者が単純なアトムだと信ずるものは、教えられる者にとって、必ずしも単純ではない。ここに「リニアーなプログラム」主義の落とし穴がある。
………(中略)……。
まもなく三年生になるというのに、平仮名の読めない子の為に、私は読めない原因をテストすることにした。平仮名を画数と形で分類して、どの類に困難があるかを調べた。初め「わ・ね・れ」の類に読めない字があったが、最後に残ったのは、「く・し・つ・へ・て」と「い・こ・り・う・と」の類になった。「単純なものほど識別しにくい」のである。この点ですでに「単純から複雑へ」の原理は間違っている。しかし「く」と「へ」、「つ」と「し」の識別が困難な理由は別にもある。その子供にとって「く」と「へ」はまったく「同じ」なのだ。

この子供の場合、抽象能力は不足しているのではなくて、過剰なのである。彼は「文字は形によって識別する」という原理に忠実すぎるのだ。いくつかの平仮名の識別方法は、形と位置という二重の原理で成り立っている。たとえばFという文字は、直角の座標系では、八個の位置をもっている。左、右、下に回せば、位置が四個になり、それらを反転させれば八個になる。Eという文字には四個の位置がある。反転しても変わらないからだ。「く」と「へ」、「つ」と「し」は形の違いではなくて、位置の違いである。その子供の言い分を代弁すればこうなる。「形だけで識別できる文字軍と、形と位置とで識別する文字群とを、形だけで識別することはできない。ゆえに正常な抽象能力によれば、文字は識別できない」。

学習による習熟とは、単純なものから複雑なものへの発展ではない。むしろ複雑なものから単純なものへの発展なのだ。文字の識別体系を単純化することが、子供にとっては習得なのである。より高次の単純なものには複雑なものが含まれている。たとえば碁の名手には一目で複雑な手筋が読める。大人が「アメリカ」という言葉を聞けば、その単純な概念のなかに「コロンブスの発見」も「ケネデイの死」も含まれている。すでに習熟を達成している者にとって単純であるものは、まだ習熟していない者にとっては単純ではない。この単純性の落差を埋めることが「教える」ことであるのに、「リニアーなプログラム」主義は、教える者にとっての単純性を押し付ける。そしてこのプログラムに遅れたものに「基礎からしっかりやり直して、追い付きなさい」と命令する。別の近道をとったりすることは、「天に唾するもの」なのだ。こうして亀にはアキレスに追い付くという不可能な課題がのしかかり、その責任は亀自身にあると見なされる。その亀を「落ちこぼれ」という。

文字も文法も知らない外国語を体当たりの会話で習得する。一冊の古典文学を子供の時から晩年に至るまで何度も読み返す。ラテン語や漢文の名文を素読し暗記する。これらは「単純なものから複雑なものへ」というドグマが圧殺してしまった「古い教育法」である。その結果は、三年以上外国語を学んでも読み・書き・会話ができない。国民の読書能力が全般的に低下する、和漢洋の古典に通暁した文豪は輩出されえないという文化状況となっている。それでも「リニアーなプログラム」主義、固定したカリキュラムをもつ学校中心主義は、自分の正しさを信じて疑わない。

世界における索引と徴候

中井久夫《世界における索引と徴候》
                 ー『徴候・記憶・外傷』ー

ふたたび私はそのかおりのなかにいた。かすかに腐敗臭のまじる甘く重たく崩れた香り一、それと気づけばにわかにきつい匂いである。

それは、ニセアカシアの花のふさのたわわに垂れる木立からきていた。雨あがりの、まだ足早に走る黒雲を背に、樹はふんだんに匂いをふりこぼしていた。

金銀花の蔓が幹ごとにまつわり、ほとんど樹皮をおおいつくし、その硬質の葉は樹のいつわりの毛羽となっていた。かすかに雨後の湿り気がたちのぼる。

二週間後には、このあたりは、この多年生蔓草の花の、すれちがう少女が残す腋臭のほのかさに通じる、さわやかな酸味をまじえたかおりがたちこめて、ひとは、おのれをつつむこの香りのでどころはどこかととまどうはずだ。小さい十字の銀花も、それがすがれちぢれてできた金花の濃い黄色も、ちょっと見には眼にとまらないだろう。

この木立は、桜樹が枝をさしかわしてほのかな木下闇をただよわせている並木道の入口であった。桜たちがいっせいにひらいて下をとおるひとを花酔いに酔わせていたのはわずか一月まえであったはずだ。しかし、今、それは遠い昔であったかのように、桜は変貌して、道におおいかぶさっているのはただ目に見える葉むらばかりでなく、ひしひしとひとを包む透明な気配がじかに私を打った。この無形の力にやぶれてか、道にはほとんど草をみず、桜んぼうの茎の、楊枝を思わせるのがはらはらと散らばっていた。

さらに、この道はふるい友人をたずねてゆく道であり、その友人との長い年月が、これらの1樹々の過去のさまざまなすがたとして、記憶の辺縁を形成している。

もっと粗い別の差異も私の記憶を励起する。私の育った住宅地とのさまざまなレベルの違いである。それは、町の匂いのちがいから始まる。かっての私の町は巨樹はなくて、明るい空がひらけ、春には家々をすぎるにつれてそれぞれの庭の花の色と香りがかわるがわる自己主張をした。

私を押し包んでいたのは、この、かすかな予感とただよう余韻とりんとした現前との、息づまるような交錯でもあった。アカシアは現在であった。桜は過去であり、金銀花はいまだ到来していないものである。それぞれに喚起的価値があり、それぞれは相互浸透している。

「この世界が、はたして記号によって尽くされるのか。なぜなら、記号は存在するものの間で喚起され照合され関係づけられるものだからだ。」「世界は記号からなる」という命題にふっと疑問を抱いた。「いまだあらざるものとすでにないもの、予感と余韻と現在あるものー現前とこれを呼ぶとしてーそのあいだに記号論的関係はあるのであろうか。」「嘱目の世界に成立している記号論と、かりに徴候と予感や過去のインデクス(索引)と余韻を含む記号論があるとして、それを同じ一つのものというのは、概念の過剰包括ではないか。そのような記号論をほんとうに整合的意味のある内容を以て構成しうるのか。ひょっとすると、スローガン以上にでないのではないか」「ではどういうものがありうるのか。」「世界は記号によって織りなされているばかりではない。世界は私にとって徴候の明滅するところでもある。それはいまだないものを予告している世界であるが、眼前に明白に存在するものはほとんど問題にならない世界である。これをプレ世界というならば、ここにおいては、もっともとおく、もっともかすかなもの、存在の地平線に明滅しているものほど、重大な価値と意味とを有するものでないだろうか。それは遠景が明るく手もとの暗い月明下の世界である。」

「世界は、索引でもある。手近かにはプルーストだろうね。一枝のサンザシが、すりへった石段のふみごこちが、三つの塔の相互関係の視覚的変転が、紅茶にひたしたマドレーヌ菓子が、それぞれひとつの世界をひらく。『索引』とはいささか殺風景なことばだが、一見なにほどのこともないひとつの事象がひとつの世界に等しいものをひらくわけだ。」

「そう、たとえばアカシアの並木は私にひとつの世界をひらく鍵だ。おさない時、私は宝塚市小林の聖心女学院の下にいた。その通学路のニセアカシアのかおりは、私の幼年時代をひらく鍵なのだ。こうやって開かれるものと眼前にあるものとのあいだは、同一世界内の記号間の関係ではないね。記号は、ひとつの世界の一部であるのだから。」