世界における索引と徴候

中井久夫《世界における索引と徴候》
                 ー『徴候・記憶・外傷』ー

ふたたび私はそのかおりのなかにいた。かすかに腐敗臭のまじる甘く重たく崩れた香り一、それと気づけばにわかにきつい匂いである。

それは、ニセアカシアの花のふさのたわわに垂れる木立からきていた。雨あがりの、まだ足早に走る黒雲を背に、樹はふんだんに匂いをふりこぼしていた。

金銀花の蔓が幹ごとにまつわり、ほとんど樹皮をおおいつくし、その硬質の葉は樹のいつわりの毛羽となっていた。かすかに雨後の湿り気がたちのぼる。

二週間後には、このあたりは、この多年生蔓草の花の、すれちがう少女が残す腋臭のほのかさに通じる、さわやかな酸味をまじえたかおりがたちこめて、ひとは、おのれをつつむこの香りのでどころはどこかととまどうはずだ。小さい十字の銀花も、それがすがれちぢれてできた金花の濃い黄色も、ちょっと見には眼にとまらないだろう。

この木立は、桜樹が枝をさしかわしてほのかな木下闇をただよわせている並木道の入口であった。桜たちがいっせいにひらいて下をとおるひとを花酔いに酔わせていたのはわずか一月まえであったはずだ。しかし、今、それは遠い昔であったかのように、桜は変貌して、道におおいかぶさっているのはただ目に見える葉むらばかりでなく、ひしひしとひとを包む透明な気配がじかに私を打った。この無形の力にやぶれてか、道にはほとんど草をみず、桜んぼうの茎の、楊枝を思わせるのがはらはらと散らばっていた。

さらに、この道はふるい友人をたずねてゆく道であり、その友人との長い年月が、これらの1樹々の過去のさまざまなすがたとして、記憶の辺縁を形成している。

もっと粗い別の差異も私の記憶を励起する。私の育った住宅地とのさまざまなレベルの違いである。それは、町の匂いのちがいから始まる。かっての私の町は巨樹はなくて、明るい空がひらけ、春には家々をすぎるにつれてそれぞれの庭の花の色と香りがかわるがわる自己主張をした。

私を押し包んでいたのは、この、かすかな予感とただよう余韻とりんとした現前との、息づまるような交錯でもあった。アカシアは現在であった。桜は過去であり、金銀花はいまだ到来していないものである。それぞれに喚起的価値があり、それぞれは相互浸透している。

「この世界が、はたして記号によって尽くされるのか。なぜなら、記号は存在するものの間で喚起され照合され関係づけられるものだからだ。」「世界は記号からなる」という命題にふっと疑問を抱いた。「いまだあらざるものとすでにないもの、予感と余韻と現在あるものー現前とこれを呼ぶとしてーそのあいだに記号論的関係はあるのであろうか。」「嘱目の世界に成立している記号論と、かりに徴候と予感や過去のインデクス(索引)と余韻を含む記号論があるとして、それを同じ一つのものというのは、概念の過剰包括ではないか。そのような記号論をほんとうに整合的意味のある内容を以て構成しうるのか。ひょっとすると、スローガン以上にでないのではないか」「ではどういうものがありうるのか。」「世界は記号によって織りなされているばかりではない。世界は私にとって徴候の明滅するところでもある。それはいまだないものを予告している世界であるが、眼前に明白に存在するものはほとんど問題にならない世界である。これをプレ世界というならば、ここにおいては、もっともとおく、もっともかすかなもの、存在の地平線に明滅しているものほど、重大な価値と意味とを有するものでないだろうか。それは遠景が明るく手もとの暗い月明下の世界である。」

「世界は、索引でもある。手近かにはプルーストだろうね。一枝のサンザシが、すりへった石段のふみごこちが、三つの塔の相互関係の視覚的変転が、紅茶にひたしたマドレーヌ菓子が、それぞれひとつの世界をひらく。『索引』とはいささか殺風景なことばだが、一見なにほどのこともないひとつの事象がひとつの世界に等しいものをひらくわけだ。」

「そう、たとえばアカシアの並木は私にひとつの世界をひらく鍵だ。おさない時、私は宝塚市小林の聖心女学院の下にいた。その通学路のニセアカシアのかおりは、私の幼年時代をひらく鍵なのだ。こうやって開かれるものと眼前にあるものとのあいだは、同一世界内の記号間の関係ではないね。記号は、ひとつの世界の一部であるのだから。」