単純から複雑への疑問

加藤尚武『教育ヒューマニズム批判』
       (雑誌・現代思想1985年11月号・特集=教育のパラドックス)

「リニアーなプログラム」主義への疑問

甘口な教育ヒューマニズムが問題にする「落ちこぼれ」は、彼等が信じて疑わない「リニアーなプログラム」の生み出すものである。普通スペンサーの名のもとに語られる「単純から複雑へ、漠然から明確へ、具体から抽象へ、経験から合理性へ」というプログラムの構成原理について、教育ヒューマニズムはなんら疑いを持たない。この構成原理は、いかにも「児童の発達段階を重視するゆえに、児童の自発性を尊重する」かに見えながら、実は、教える者の教えられる者への絶対的な優位を意味している。そればかりか「単純と複雑」という近世哲学に固有のドグマに依存している。それは知識のアトミズムである。教える者が単純なアトムだと信ずるものは、教えられる者にとって、必ずしも単純ではない。ここに「リニアーなプログラム」主義の落とし穴がある。
………(中略)……。
まもなく三年生になるというのに、平仮名の読めない子の為に、私は読めない原因をテストすることにした。平仮名を画数と形で分類して、どの類に困難があるかを調べた。初め「わ・ね・れ」の類に読めない字があったが、最後に残ったのは、「く・し・つ・へ・て」と「い・こ・り・う・と」の類になった。「単純なものほど識別しにくい」のである。この点ですでに「単純から複雑へ」の原理は間違っている。しかし「く」と「へ」、「つ」と「し」の識別が困難な理由は別にもある。その子供にとって「く」と「へ」はまったく「同じ」なのだ。

この子供の場合、抽象能力は不足しているのではなくて、過剰なのである。彼は「文字は形によって識別する」という原理に忠実すぎるのだ。いくつかの平仮名の識別方法は、形と位置という二重の原理で成り立っている。たとえばFという文字は、直角の座標系では、八個の位置をもっている。左、右、下に回せば、位置が四個になり、それらを反転させれば八個になる。Eという文字には四個の位置がある。反転しても変わらないからだ。「く」と「へ」、「つ」と「し」は形の違いではなくて、位置の違いである。その子供の言い分を代弁すればこうなる。「形だけで識別できる文字軍と、形と位置とで識別する文字群とを、形だけで識別することはできない。ゆえに正常な抽象能力によれば、文字は識別できない」。

学習による習熟とは、単純なものから複雑なものへの発展ではない。むしろ複雑なものから単純なものへの発展なのだ。文字の識別体系を単純化することが、子供にとっては習得なのである。より高次の単純なものには複雑なものが含まれている。たとえば碁の名手には一目で複雑な手筋が読める。大人が「アメリカ」という言葉を聞けば、その単純な概念のなかに「コロンブスの発見」も「ケネデイの死」も含まれている。すでに習熟を達成している者にとって単純であるものは、まだ習熟していない者にとっては単純ではない。この単純性の落差を埋めることが「教える」ことであるのに、「リニアーなプログラム」主義は、教える者にとっての単純性を押し付ける。そしてこのプログラムに遅れたものに「基礎からしっかりやり直して、追い付きなさい」と命令する。別の近道をとったりすることは、「天に唾するもの」なのだ。こうして亀にはアキレスに追い付くという不可能な課題がのしかかり、その責任は亀自身にあると見なされる。その亀を「落ちこぼれ」という。

文字も文法も知らない外国語を体当たりの会話で習得する。一冊の古典文学を子供の時から晩年に至るまで何度も読み返す。ラテン語や漢文の名文を素読し暗記する。これらは「単純なものから複雑なものへ」というドグマが圧殺してしまった「古い教育法」である。その結果は、三年以上外国語を学んでも読み・書き・会話ができない。国民の読書能力が全般的に低下する、和漢洋の古典に通暁した文豪は輩出されえないという文化状況となっている。それでも「リニアーなプログラム」主義、固定したカリキュラムをもつ学校中心主義は、自分の正しさを信じて疑わない。