友情とは相互の軽蔑の上にー中野好夫(「悪人」礼賛)ー

友情は相互の軽蔑の上に

中野好夫はエッセイ「悪人礼賛」のなかで、“友情”について常識をくつがえす、下記のような定義をしている。

友情というものがある。一応常識では、人間相互の深い尊敬によってのみ成立し、永続するもののように説かれているが、年来ぼくは深い疑いをもっている。むしろ正直なところ真の友情とは、相互間の正しい軽蔑の上においてこそ、はじめて永続性をもつものではないのだろうか。

「世にも美しい相互間の崇敬によって結ばれた」といわれるニーチェとワグナーの友情が、僅々数年にしてはやくも無残な破綻を見たということも、ぼくにはむしろ最初からの当然結果だとさえ思えるのだ。伯牙に対する鐘子期の伝説的友情が、前者の人間全体に対するそれではなく、単に琴における伯牙の技に対する知音としてだけでの伝えられているのは幸いである。伯牙という奴は馬鹿であるが、あの琴の技だけはなんとしても絶品だという、もしそうした根拠の上にあの友情が成立していたのであれば、ぼくなどむしろほとんど考えられる限りの理想的な友情だったのではないかとの思いがする。

友情とは、相手の人間に対する九分の侮蔑をもってしてすら、なおかつ磨消し切れぬ残る一分に対するどうにもならぬ畏敬と、この両者の配合の上に成立する時においてこそ、最も永続性の可能があるのではあるまいか。十分に対するベタ惚れ的盲目友情こそ、まことにもって禍なるかな、である。