魯迅の傑作「故事新編」ー花田清輝ー

魯迅の傑作故事新編花田清輝
魯迅」(『文学』1956年10月号原題「故事新編」)

戦争中、しばしば、わたしは、魯迅の『故事新編』についてかいた。とりわけ何度もとりあげたのは『鋳剣』で、青衣をまとい、青剣を背負い、暴君をたおすために、城内にむかってひた走りに走っていく、あの作品の主人公である眉間尺という少年のイメージには、窮鼠かえって猫をかむといったような、その頃のわれわれの「抵抗」の在りかたをおもわせるものがあって切実であった。煮えたぎるカナエのなかで、暴君の首と、少年の首と、少年を助ける黒い男の首とが、マンジどもえになって死闘をくりかえし、ついにことごとく、どれがどれだかわからない、まっ白いされこうべに化してしまう結末の部分は、いかにも中国における階級闘争のはげしさを、まざまざと物語っているようで、いくらかうらやましいような気がしないことなかった。もっとも、それと同時に、わたしがおなじ『故事新編』のなかの老子を描いた『出関』にも心をひかれていたことはまぎれもない事実で、たとえば老子が、弟子にむかって、ああんと口をあけてみせ、「ごらん、わしの歯は、まだあるかな」「ありません」「舌はまだあるかな」「あります」「わかったか」「先生のおっしゃる意味は、堅いものは早くなくなるが、軟らかいものは残る、ということですか」「そのとおりだ」
といったような問答をするくだりには、おもわずわたしは、会心の微笑をもたらさないわけにはいかなかった。おなじ一足の靴であろうとも、わしの靴は流砂を踏むもの、孔子のそれは朝廷にのぼるもの、ときっぱりといいきり、黄塵の渦まくなかを、のろのろと、砂漠にむかって消えていく老子のすがたを、私は愛した。
………中略………。
戦後、間もなく、太宰治についてかいたとき、わたしは『ダス・ゲマイネ』のなかに描かれている甘酒屋の赤い毛氈をしいた縁台の異様なうつくしさや、フランス抒情詩の講義をききおえて、そこへ登場してくる大学生の口ずさむ、梅は咲いたか桜はまだかいな、という「無学な文句」のなかにみなぎっている詩や、その相手である、端午だとか、やみまつりだとか、八十八夜だとかを気にする、暦に敏感な音楽家の性格の奇抜さなどをとりあげた。そこには、手あかのついたものが、きれいに洗いあげられて、ウルトラ・モダーンの美でかがやいていた。魯迅の『故事新編』のあたらしさもおなじようなもので、そのなかで、かれは、いわば、中国における甘酒屋の赤い毛氈をしいた縁台をとりあげ、それにたいしてコペルニクス的な転回をあたえたわけである。もっとわかりやすい例をあげれば、それはボーモン夫人の童話やギリシャ神話にヒントをえて、ジャン・コクトーのつくった『美女と野獣』や『オルフェ』のような映画に似ているのだ。もっとも魯迅の仕事にくらべると、コクトーのそれは、たいしたことはないともいえよう。なぜなら、コクトーのほうは、19世紀リアリズムの行きづまりを、アヴァンギャルド芸術によって打開しようとしているにすぎないが、魯迅のほうは、みずからの手で、まず、リアリズムの地盤をつくりあげ、さらにまた、そのリアリズムを超えて、独自のアヴァンギャルド芸術を創造しなければならなかったのだから。魯迅が若い批評家から、『吶喊』のなかでは、『補天』が、いちばんいい、とほめられて、クサつたのは当然のことだ。みたところ、その批評家は、アヴァンギャルド芸術を正当に評価しているみたいだが、じつはリアリズムにたいする無理解をバクロしているにすぎないのである。そして超近代的なものを、前近代的なものと錯覚して面白がっているだけのことだ。

魯迅が、一時、放棄していた『故事新編』の仕事をふたたびとりあげたのは、おそらく芸術的な動機だけからではなかろう。かれは、自国の伝統の重圧を身にしみて感じ、近代化の道をとおって、先進国に追いつき、追いぬくことの困難をつくづく悟ったにちがいない。そこでかれは、前近代的なものを否定的媒介にして、近代的なものを超える方法についておもいをこらしたのだ。そのためには、なにより伝統と断絶しなければならない。ナショナルなものを、インターナシィナルな観点から、みなおしてみなければならない。そして後進国の人民を、がんじがらめにしばりあげている伝統の桎梏を、逆にバリケードに転化しなければならない。おそらくかれは、そう考えて、神話や伝説をとりあげたのであろう。その点、かれは、政治に絶望して、辛うじて芸術に希望をかけているわれわれの周囲にいる芸術家などとは、あくまで選を異にする人物だったとわたしはおもう。