「山本夏彦・名言集」抜粋①

あれ、老衰の兆なんですよ。年をとってから一番避けなくちゃならないのは、人生の師匠になりたがることと説教すること。年とったからって自動的にひとの師匠になれるなんて、とんでもない誤解ですよ。(意地悪は死なず)

先生ぐらい意地悪なものはありませんよ。真面目な先生ほど意地悪だね。そして意地悪の自覚がないんだから困る。意地悪っていうものはそもそも自覚を欠くものなんですね、あれ。(意地悪は死なず)

私は衣食に窮したら、何を売っても許されると思うものである。女なら淫売しても許される。ただ、正義と良心だけは売物にしてはいけないと思うものである。(二流の愉しみ)

理解をさまたげるものの一つに、正義がある。良いことをしている自覚のある人は、他人もすこしは手伝ってくれてもいいと思いがちである。だから、手伝えないと言われるとむっとする。むっとしたら、もうあとの言葉は耳にはいらない。(二流の愉しみ)

そこにないものを見ないと、世の中のことは分らない。それというのも、ものはそこにあるものより、ないものから成ることが多いからである。(二流の愉しみ)



私は、女が女である部分、男たちが追い回して争う部分を見ようとした。はじめから見たかったが、恐れていた部分である。私はかっと目をみひらき、重複した襞と、隠湿なその奥をのぞいたが、たちまち顔をそむけた。男がこんなものを追及するのは、まちがっている。それは美とは無縁なもの、むしろ醜なるものである。白昼正視にたえるものではない。(日常茶飯事・夢で女に)

テレビは巨大なジャーナリズムで、それには当然モラルがある。私はそれを「茶の間の正義」と呼んでいる。眉ツバものの、うさんくさい正義のことである。(茶の間の正義・はたして代議士は犬畜生か)

芸人や文士は、最後の個人だる。かせげばかせぐほどまきあげられる。彼らは特殊な、個人的な才能で、国は何一つ手助けしない。しようにも出来ない。それなのに七割を奪って、三割を投げ与える。だから〇〇芸能プロと称する法人を作り、そのプロから給与を貰ったことにすれば、タレントは法人になり得る。言うまでもなくそれはトンネル法人、ニセ法人で、彼は彼個人をごまかして、税の大半をまぬかれるのである。税はまぬかれても、心身の頽廃をまぬかれることはできない。自分の金を自分で盗むとは、神武以来の椿事である。頽廃の極である。…中略…こんなにウソで固めた時代は、有史以来なかったのではあるまいか。ここまで固めてはいけないのではないか。それもこれも、わが税制のゆえである。これを改めない限り、区々たるモラルを論じてもはじまらない。ろんじてもむなしい。モラルは税制の結果だとは、すでに言った。個人が法人に変装したのは、国が強いたからである。私は我が身をかえりみて、わが半身が法人と化しつつあることを認めないわけにはいかない。もとの個人にしてかえせ、と言いたい。(茶の間の正義・株式会社亡国論)

人は分かっても自分に不都合なことなら、断じて分かろうとしないものだ。(茶の間の正義・ポッカレモン)

私は「暮らしの手帖」をほめたことがある。ひと口に雑誌の性格というが、その性格は、誌面にあるものからばかり成っているのではない。むしろ、ないものから成っている。たとえば、この雑誌には、流行作家の小説がない。芸能人のスキャンダルがない。政治に関する議論がない。身上相談、性生活の告白のたぐいがない。さながら、ないないづくしである。けれども、以上は偶然ないのではない。ほかの雑誌にあるものを、わざと去って、それによって、この雑誌の性格は顕著なのである。だから、あるものばかりでなく、ないものを見よとほめたのである。(変痴気論・暮らしの手帖)

文はうそなり、と私は思っている。文は人なりという言うが、それは同時にうそなのである。(毒言独語・文はうそである)

異端を述べる言論は、二重の構造になっていなければならない。すなわち、一見世論に従っているように見せて、読み終わると何やら妙で、あとで「ははあ」と分かる人には分かるように、正体をかくしていなければならない。いなければ、第一載せてくれない。(毒言独語・文はうそである)