女帝への共同参画不要ー上野千鶴子ー

「女帝への共同参画不要」  引用

上野千鶴子天皇制」と伝統文化一<女帝>論議のために一 朝日新聞・夕刊8/17/'08


権威への共同参画不要 
若者のあいだに広がる無関心

憲法を改正するなら、第一条から手をつけるべきだろう。国旗や国家、富士山や桜が、日本の「象徴」だというのならわかるが、天皇という人間が「国の象徴」であるとは、象徴ということばの用法からしてもおかしい。天皇が「国の主権者」であるというのなら意味は通じるが、それでは君主制に戻る時代錯誤だから、受け容れられない。明治期には、あまたある憲法草案のなかには、日本を共和制の国家にしようという提案がいくつかあった。そろそろ日本を正真正銘の「主権在民」の世俗国家にして、「神の国」などと、だれにも言わせないようにしたほうがよくはないか。

万世一系」に虚構

天皇制」という用語が、戦前コミンテルンの人々によって、かれらが打倒しようとした体制に対して与えられた名前であることは、しばしば忘れられている。もともと「天皇制」とは、資本家と地主階級とに両足をかけたボナパルテイズム政権であった近代日本の政体に対して与えられた名前であった。この用語はその後、天皇制を支持する立場の人々によっても採用され、歴史超越的に用いられるようになった。したがって「古代の天皇制」とか「中世の天皇制」とか呼ぶことは不適切なだけでなく、そのなかに歴史的一貫性を事後的に構築してしまう効果を持つ。歴史上、何度か断絶したり、交替したりした王権を、「万世一系」であるかのように虚構することで、枯れ尾花を巨大な幽霊に見せてしまう。

今の憲法のもとでも、天皇は政治に関わってはならないことになっているから、ほんらい「皇室外交」などというものも存在してはならない。それならいっそ、と文化財天皇制を唱える人々もいる。政治の向きからすべて手を引き、千代田のお城から京都御所へ移り、家元か宗匠のごとく、権威を暖簾に暮らしてもらう、という案だ。世の中には権威の好きなひとたちがいるから、勲章を発行したり、箱書きをしたりするだけで、じゅうぶん食べていけるだろう。だが、文化財ならなんでも残せばよいというものでもなかろう。遊郭や腹切りなどの「伝統」は、なくなったほうがよい「伝統」である。

歴史を超える伝統など、存在しない。女帝論議がかまびすしいが、天皇が男子に限ることも明治になってから「創られた伝統」にすぎない。近世までは女帝が何人もいたし、古代の女帝は男帝にくらべても強大な権力を持っていた。戦前の「女帝中継ぎ天皇説」は、男系説を正当化するために御用学者がつじつま合わせをしたものである。現憲法は、天皇世襲であるとするだけで、男子に限るとは書いていない。



皇室典範に関する有識者会議が、女性天皇を容認する案を示したが、、だからといって、わたしは女帝をよしとするわけではない。天皇は日本社会における権威の中心にいる。勲章も位階も、天皇からの距離をあらわしている。勲章の大好きな人たちは、この権威主義が好きな人たちだ。権威主義の「男女共同参画」は要らない。そもそも民主主義の世の中に、生まれながらにして他の誰よりも尊い個人がいるのはおかしくはないか。

拘束からの解放を

いまや保守派のなかからさえ、「天皇抜きのナショナリズム」が台頭している。日本のナショナリズムが成熟しているとするなら、もはや天皇に依存する必要はなかろう。若者のあいだで、天皇および天皇制に対する無関心は半数を超える。サッカーで「ニッポン、チャチャチャ」とうたうプチ・ナショナリズムな風景のなかに、天皇の居場所はない。天皇制を維持するために日本の税金のうちどれだけのコストを払っているかを知ったら、かれらはそんなもの、もう要らない、というかもしれない。

それより何より、戸籍も住民票もなく、参政権もなく、そして人権さえ認められていない皇族のひとたちを、その拘束から解放してあげることだ。住まいと移動を制限され、言論の自由職業選択の自由もなく、プライバシーをあれこれ詮索され、つねに監視下に置かれている。こんな人生をだれが送りたいと思うだろうか。失声症適応障害になるのも無理はない。

天皇制という制度を守ることで、日本国民は、皇族という人間を犠牲にしてきたのだ。ほんとうを言えば、制度に安楽死をしてもらうことで、制度の中の人間に生き延びてほしい、わたしはそう思っている。