下ネタは上ネタだー上野千鶴子ー

「『下ネタ』は『上ネタ』だ」  引用

上野千鶴子<ベツドの中の戦場ー河野喜代美『性幻想』>
              「上野千鶴子が文学を社会学する」所収

「『性幻想一ベッドの中の戦場へ』は静かな挑戦の書である。文庫版の本書が刊行されたのは1990年、今から10年前である。『性幻想』というタイトルは今でも衝撃的だ。今日では性が「幻想」の産物だと言うのは「常識」になってきたが、つい最近まで性が
「本能」や「自然」だと考える人たちはいたし、そして今でもいる。アメリカ性情報・教育協議会のカルデローンとカーケンダールが「セクシュアリテイ」を「セックス」から区別して定義するように、「セックス」は「両脚のあいだに」そして「セクシュアリテイ」は「両耳のあいだに」ある。両耳のあいだにあるのは、大脳である。わたし自身がかねてから主張してきたように、性について語るのは「下ネタ」どころか「上ネタ」、人間の歴史と文化に関わることなのだ。幻想なくして人は発情することさえできない、社会的な生き物である。」

「副題の「ベッドの中の戦場へ」という表現は、それ以上のきしみを生むことだろう。思えば、ベッドの中で裸形で向き合った一組の男と女を、もじどおりの「裸のつきあい」と
権力も規範も及ばない社会からの「避難所」、秩序からの「解放区」と、どれだけ多くの人々が半ばは期待をこめて語ってきたことだろう。それが希望的観測でなければたんなるかんちがいにすぎなことを、「戦場」ということばは苛烈にあばく。裸の男女は、男と女をつくりあげた歴史と文化の総体を背負って向かいあう。日常生活のなかで男に従ってきた女が、ベッドのなかだけで対等になれる道理もない。「個人的なことは政治的である」というフェミニズムの標語を、これほど簡潔にいいあらわした表現はあるだろうか。」

「男が女と寝ているのではない、「男制」が「女制」と寝ているのだ、と喝破したのは伏見憲明さん[『プライベート・ゲイ・ライフ』]である。男や女をつくりあげるさまざまな文化的な記号に、わたしたちは反応し、発情する。そこに「自然」なものは何もない。襟足や足首にとくべつに固着するフェテイシズムがあるとしたら、乳房や性器もまた、フェテイッシュな記号として働いている。異性の性器を見さえすれば自動人形のようにひきおこされる欲情は、さまざまに異なる性器がすべて単一の記号へと収斂されるような範型化の産物だ。そこでは人は、性欲の奴隷ではなく、記号なのである。」