歴史とはなにか

上野千鶴子「方法の問題」(「ナショアリズムとジェンダー」)


歴史とは、「現在における過去の絶えざる再構築」である。歴史が過去にあった事実をありのままに語り伝えることだというナイーヴな歴史観は、もはや不可能になった。もし
歴史にただひとつの「真実」しかないとしたら、決定版の「歴史」は一「フランス革命史」であれ、「明治維新史」であれ一一度だけ書かれたら、それ以上書かれる必要がなくなる。だが、現実には、過去は現在の問題関心にしたがって絶えず「再審revision」にさらされている。だからこそ、フランス革命史や明治維新史について、たった一度「正史」や「定説」が書かれたら終わり、ということにはならず、時代や見方が変わるにつれ、いくども書き換えられる。わたしは基本的には歴史は書き換えられると思っている。………

「言語論的転回linguistic turn」*以降の社会科学はどれも、「客観的事実」とはなんだろうか、という深刻な認識論的疑いから出発している。歴史学も例外ではない。歴史に「事実fact」も「真実truth」もない、ただ特定の視角からの問題化による再構成された「現実reality」だけがある、という見方は、社会科学のなかではひとつの「共有の知」とされてきた。社会学にとってはもはや「常識」となっている社会構築主義(構成主義)social constructionismとも呼ばれるこの見方は、歴史学にとってもあてはまる。

したがって、他の社会科学の分野同様、歴史学もまたカテゴリーの政治性をめぐる言説の闘争の場である。わたしの目的はこの言説の権力闘争に参入することであって、ただひとつの「真実」を定位することではない。わたしがここで用いる「政治」は、階級闘争のような大文字の「政治」ではなく、フーコーのいう言説の政治、カテゴリーと記述のなかに潜む小文字の政治を意味する。

その限りで、社会構築主義は、たとえば「ナチ・ガス室はなかった」とする歴史修正主義者revisionistとの「歴史と表象」をめぐる闘いを避けて通ることはできない。むしろ歴史とは、無限に再解釈を許す言説の闘争の場であることが再確認されたといってよい。たとえば、戦時下の歴史記述について、「歴史の偽造をゆるすな」「歴史の真実を歪めるな」というかけ声がある。この見方は、歴史に「ただひとつの真実」がそこに発見されるべく存在している、という歴史実証主義historical positivismの立場を暗黙のうちに前提しているかのように聞こえる。だが、「事実」はそのまま誰が見ても変わらない「事実」であろうか?

こう言ったからといって、わたしは「事実とは観念の構築物にすぎない」というカント主義を採用しているわけではない。「事実」を「事実」として定位するもの、ある事実に他の「事実」以上の重要性を与えるもの、ある「事実」の背後にあってそれと対抗する「もうひとつの現実」を発掘するものは、それを構成する視点にほかならない、と言いたげである。社会的構築物としての「現実」とは物質的なものであり、わたしたちはそのなかで正当性を付与されたものだけを「事実」と呼び慣わしてきた。
         
          *事物や意味が所与として存在してそれに言語記号が付与
           されるのではなく、記号が先行して意味内容を構築する
           とする認識論的パラダイムの転換をもたらした。主体も
           また言語実践の効果にほかならないとする徹底した自己
           言及性で、ポストモダニズムの核心のひとつとなった。





歴史とはなにか

上野千鶴子「方法の問題」(「ナショアリズムとジェンダー」)

歴史とは、「現在における過去の絶えざる再構築」である。歴史が過去にあった事実をありのままに語り伝えることだというナイーヴな歴史観は、もはや不可能になった。もし
歴史にただひとつの「真実」しかないとしたら、決定版の「歴史」は一「フランス革命史」であれ、「明治維新史」であれ一一度だけ書かれたら、それ以上書かれる必要がなくなる。だが、現実には、過去は現在の問題関心にしたがって絶えず「再審revision」にさらされている。だからこそ、フランス革命史や明治維新史について、たった一度「正史」や「定説」が書かれたら終わり、ということにはならず、時代や見方が変わるにつれ、いくども書き換えられる。わたしは基本的には歴史は書き換えられると思っている。………

「言語論的転回linguistic turn」*以降の社会科学はどれも、「客観的事実」とはなんだろうか、という深刻な認識論的疑いから出発している。歴史学も例外ではない。歴史に「事実fact」も「真実truth」もない、ただ特定の視角からの問題化による再構成された「現実reality」だけがある、という見方は、社会科学のなかではひとつの「共有の知」とされてきた。社会学にとってはもはや「常識」となっている社会構築主義(構成主義)social constructionismとも呼ばれるこの見方は、歴史学にとってもあてはまる。

したがって、他の社会科学の分野同様、歴史学もまたカテゴリーの政治性をめぐる言説の闘争の場である。わたしの目的はこの言説の権力闘争に参入することであって、ただひとつの「真実」を定位することではない。わたしがここで用いる「政治」は、階級闘争のような大文字の「政治」ではなく、フーコーのいう言説の政治、カテゴリーと記述のなかに潜む小文字の政治を意味する。

その限りで、社会構築主義は、たとえば「ナチ・ガス室はなかった」とする歴史修正主義者revisionistとの「歴史と表象」をめぐる闘いを避けて通ることはできない。むしろ歴史とは、無限に再解釈を許す言説の闘争の場であることが再確認されたといってよい。たとえば、戦時下の歴史記述について、「歴史の偽造をゆるすな」「歴史の真実を歪めるな」というかけ声がある。この見方は、歴史に「ただひとつの真実」がそこに発見されるべく存在している、という歴史実証主義historical positivismの立場を暗黙のうちに前提しているかのように聞こえる。だが、「事実」はそのまま誰が見ても変わらない「事実」であろうか?

こう言ったからといって、わたしは「事実とは観念の構築物にすぎない」というカント主義を採用しているわけではない。「事実」を「事実」として定位するもの、ある事実に他の「事実」以上の重要性を与えるもの、ある「事実」の背後にあってそれと対抗する「もうひとつの現実」を発掘するものは、それを構成する視点にほかならない、と言いたげである。社会的構築物としての「現実」とは物質的なものであり、わたしたちはそのなかで正当性を付与されたものだけを「事実」と呼び慣わしてきた。
         
   *事物や意味が所与として存在してそれに言語記号が付与
    されるのではなく、記号が先行して意味内容を構築する
     とする認識論的パラダイムの転換をもたらした。主体も
     また言語実践の効果にほかならないとする徹底した自己
    言及性で、ポストモダニズムの核心のひとつとなった。