向田邦子の修辞学ー霊長類ヒト科動物図鑑ー

女が地図を描けないということは、女は戦争が出来ないということである。敵陣の所在も判らず、自分がいまどこにいるかもおぼつかないのだから、ミサイルどころか、守るも攻めるも、出来はしない。そのへんが平和のもとだと思っていたのだが、地図の描ける女が増えてくると安心していられないのである。(女地図)

麻雀やトランプをしなくても、母にとっては、毎日が小さな博打だったのではないか。見合い結婚。海のものとも判らない男と一緒に暮らす。その男の子供を生む。その男の母親に仕え、その人の死に水をとる。どれをとっても大博打である。今は五分五分かも知れないが、昔の女は肩をならべる男次第で、女の一生が定まってしまった。まして、その子供を生むとなると、まさに丁半だる。男か女か。出来はいいのか悪いのか。「よろしゅうござんすか。よろしゅうござんすね」ツボ振りは左右をねめ廻して声をかけるが、女は自分のおなかがサイコロであり、ツボである。ましてこの勝負、イカサマは出来ないのだ。(丁半)

うちまでもう一息という暗がりrで、いきなり刃物をつきつけられた。私は、うちの近所で災難に逢う星らしい。「お金ですか」と二度言ったが男は答えず、私はそばの竹藪まで引きずられた。うちの門灯が見えているのに、どうすることも出来ない。私は左手にカメラを持っていた。友人から借りた外国製である。これを盗られたらどうしよう。カメラより大事な、女として盗られたら困るもののことには思い到らなかった。カメラ、カメラ、と思っていた。竹藪の入り口で男が咳をした。私は左手のカメラを大きく振った。カメラは男の腹に当たり、私は彼の手を振り切って駆け出した。(警視総監賞)

それまでは、優等賞、運動会の駆けっこの一等賞、綴り方コンクールの賞などと、すこしはごほうびも頂いていたのだが、或る日バッタリと北海道の鰊がこなくなるように、パチンコタマが出なくなるように、それ以来、どうもパッとしない。わずかに頂いたものといえば、ゴルフとボウリングのトロフイぐらいで、千本もテレビドラマを書いているというのに首から上の、つまり頭を使ったごほうびには無縁であった。「ヤマダさんもハシダさんも、おもらいになったねえ」母が小さな声で呟いていたのも、小耳にはさんでいた。「ダが」がつけば、いただけるというものでもないのだ。略歴を書くとき、賞罰なし、とつけ加えながら、どうせお嫁にゆかなかったのなら、あのとき警視総監賞をいただいておけばよかったかな、と気弱な考えが頭をよぎることもあった。この年では痴漢も襲って下さらないのだろうし、三十年前にくらべると足腰も衰えているから、もう警視総監賞は無理であろう。そう思って諦めていたのだが、お巡りさんのセリフではないが、人生は判らない。どいう風の吹き廻しか、直木賞を頂いてしまった。警視総監の仇を直木三十五という方に討っていただいたような不思議な気持でいる。(警視総監賞)

安全ピンはやっぱりピンなのだ。先がとがっていて、下手すると指先を傷つけやすい代物なのである。どんなに安全な造りになっていようと、ピンのない安全ピンはない。安全カミソリはカミソリなのだ。その気になれば自殺だって人殺しだって出来る凶器なのだ。私たちは安全という字がくっいていると、もうそれだけで安心してしまって、つい気がゆるんでしまう。これで大丈夫だと安心してしまう。その分だけアブないという気がする。…(中略)…。安全、という字は、どこかうさん臭い。安全ピンで怪我をしても、補償はしていただけない。使い方がよくないのですと叱られそうである。安全カミソリで顔に傷をつくっても、同じこと。これこそ、気のゆるみと腕が未熟なのだ。どうも私は安全という字をうたがっている。信用していない。この二字がつくとかえって警戒して、気をつけなくてはいけないぞと気持も手も身構えて用心している。安全保障条約を結んでも、絶対安全ではないのだ。安全地帯に立っていても、いつ玩具の兎のように跳ねとばされるかわからないのである。(安全ピン)